猫の妙術

「猫の妙術」現代語訳


   勝軒という剣術者がいた。

   勝軒の屋敷に大きなネズミが出て、昼間から部屋の中を駆け回っていた。

  勝軒は戸やふすまを閉め切り、飼い猫にそのネズミを捕らせようとした。

   ところがこの大ネズミが、猫の顔に飛びかかって食いついたので、猫は鳴き声を挙げて逃げ去ってしまった。

   これはいかん、と勝軒は思い、近郷近在の、ネズミ取りの名手と名高い猫をたくさん捕まえてきて、ネズミがいる部屋に追い込んだのだが、ネズミは床の隅に身を潜め、猫が来たなら飛びかかり、食いついてやろうとする殺気がすさまじく、猫はみんな尻込みして動けない。

   勝軒は腹を立て、木刀を取り出し、ネズミを打ち殺そうと追いかけ回したが、抜けかわされ木刀に当たらない。そこらの戸・障子・ふすまなどを叩き破るほど振り回しても、ネズミは空中を飛んで、その早さは稲妻が光るようである。どうかすると、勝軒の顔に飛びかかって、食いつこうとする勢いである。

   勝軒は大汗を流し、下僕を呼んでこう命じた。

「ここから六、七町(1町≒110m)先に、たぐいまれなネズミ捕りのすごい古猫がいると聞いている、借りてこい。」

   というわけで、すぐさま人をやってその猫を連れてくると、見た目は役立ちそうにも見えず、それほどはきはきした猫にも見えない。

「そいつをまず、ネズミのいる部屋に追い込んでみよう」ということで、少し戸を開けて、その猫を入れたところ、ネズミはすくんで動かず、猫は何事もなく、のろのろと歩いて、ネズミを口にくわえて、引いて戻ってきた。

   

   その夜、ネズミを取り損なった猫どもが、勝軒の家に集まり、ネズミを捕った古猫を上座に招いて、いずれもお辞儀してこう言った。

「私どもはネズミ取りの名手と呼ばれ、その道に修錬し、ネズミどころかイタチやカワウソでも取りひしいでやろうと、爪を研いでいたのですが、今だにこのような強いネズミがいたことを知りませんでした。あなた様は、いったいどのような術を使って、簡単にあのネズミを討ち取ったのでしょう。どうかお願いです、惜しまず、あなた様の妙術をご教示下さい」

   と、神妙な顔つきで丁寧に申し述べた。

 


   古猫が笑いを浮かべて曰く。

「皆さんいずれもお若く、一所懸命にネズミ取りをなさったが、今だに正しいネズミ取りの法をお聞きになっていないから、思わぬネズミに出くわして、不覚をお取りになった。まぁ、それはそうと、まず皆さん方の、これまでの修業のほどをお伺いしましょう」

  

   猫の中から、鋭そうな黒猫が一匹進み出て、こう言った。

「私は代々ネズミ取りの家に生まれて、その道に心がけましたので、七尺の屏風を飛び越え、小さい穴もくぐり、子猫の頃より、早業に軽業で出来ないと言うことがありません。        例えば寝たふりをしてだまし、あるいは不意に飛び起きて、家の梁や桁を走るネズミであろうとも、取り損なったことはありません。それなのに、今日は思いも寄らぬ強いネズミに出くわし、一生の後れを取ってしまい、心外の至りでございます。」

 


   古猫が、応えて曰く

「あぁ、お前さんが修業したのは、技法だけだ。だから、今だにネズミを狙う欲心が抜けていない。昔の人が技法を教えたのは、勝とうとするその欲から自由になる道筋を分からせてやろうとしたからだ。だから技法というものは、単純でやさしそうに見えても、その中に究極のことわりを含んでいるのだ。

   それなのに後世になると、技法ばかり修業するようになって、どうかすると、色々余計なことをこしらえて、技の上手さを極めては、昔の人を馬鹿にし、自分の技量にまかせてやりたい放題、はては技くらべということになり、その技巧がどこまでも進んで、どうしようもなくなっている。

   つまらない者が技のうまさを極め、技法のみに頼るというのは、みなこのようなものだ。

   確かに技法は心の働きだから、心と技法は無関係ではない。しかし正しい道に基づかないまま、単に技巧をこらすばかりでは、偽物の道に陥るきっかけになってしまう。こういった技法の使いようは、却って害になることが多い。だから今言ったことを元に反省し、よくよく工夫する事が肝要である。」

 


   次に、虎毛の大きな猫が一匹まかり出て、こう言った。

「俺が思うに、武術は気を尊ぶから、長いこと気力を練ってきた。今やその気力は広々として力強く、天地に満ちるほどだ。

   その気力を使って、まず心眼で敵であるネズミを足元に踏みつけ、気で勝ちを取っておいてから、その後に体を動かす。

   声に従い、響きに応じているから、ネズミが左右どこにいようとも、その変化に対応できないことはない。

   このように形に頼らなければ、形は自然に湧き出てくるものだ。

   だから高い梁や桁を走るネズミは、にらみ落としてこれを捕る。

   それなのにあの強いネズミは、向かってくるにも姿かたちが無く、逃げ去るにもその気配を残さない。あれはいったい何者なのだ。」 

 


   古猫が、応えて曰く

「お前さんが修業したのは、気力の勢いにまかせた上で、はじめて役に立つやり方だ。それは自分の自信を頼みとしなければ成り立たず、最善のものではない。

   こちらが撃ち破ってやろうとすれば、敵もまたそうしようとする。だが破ろうにも破れない相手が出てきたらどうだね?

   こちらが相手をしのいでくじいてやろうとすれば、敵もまたそうしようとする。しのぐにしのげない相手が出てきたらどうだね?

   どうして、いつも自分ばかりが強くて、敵は弱い、なんてことがあるだろう?

   自分の気力が、広々として力強く、天地に満ちるように思えるのは、お前さんの体や心がその一つであるような、万物を形作っている元が、たまたま、強そうな形になっているだけだ。だからお前さんのは、孟子先生が言う浩然の気に似ているようで、実は全然違う。

   浩然の気とは、宇宙の真理を体得した者が、強く健やかでいることだ。お前さんのは、ものごとの勢いに乗って、たまたま強そうに見えるだけだ。だからそのはたらきは、浩然の気と同じではない。普段の穏やかな川の流れが、偶然一夜にして洪水になるようなものだ。そんな勢いにも、屈しない者が出てきたらどうするね?

   追い詰められたネズミが、かえって猫を噛むということはあるものだ。そういうネズミは、必死の勢いで、自分を頼みにすることがない。自分の命も忘れ、欲を忘れ、勝ち負けは、もはや気にしない。この身を全うしようという気持ちもない。だからその意志たるや、鋼鉄のようである。このような者を、どうして気力の勢いで破ることが出来ようか。」

 


   次に、灰色の少し年取った猫が、静かに進み出てこう言う。

「おっしゃる通り、追い詰められたネズミの気勢は盛んではあっても、やはりその姿は消すことが出来ません。姿がある者はいくら小さくても、必ず見ることが出来ます。

   私は心を練ってから長くなります。勢いを張ることもなければ、何ものとも争わず、互いになじんで離れず、相手が強がるときは、なじんでそれに従います。

   私の術は幕を張って、ふわりと石つぶてを受け止めるようなものです。いくら強いネズミが来ても、私に挑もうにも手がかりがありません。

   ところが今日のネズミは、勢いにも屈しませんし、なじもうとしても応じません。その振る舞いはまるで神がかりです。こんなのは、見たことがありません。」

 


   古猫が、応えて曰く

「お前さんのなじむというのは、欲得なしになじむというやつではない。なじんでやろうとしてなじんでいるに過ぎない。

   敵の鋭気をかわそうとしても、少しでもかわしてやろうと心に思えば、敵はその気配を察する。

   なじもうとする欲を持ったままなじめば、心が汚れてしまって、単にだらけているようにしか見えない。欲を持ったまま事を行えば、本来は自然に感じることができるはずの感覚が、感じられなくなってしまう。

   この自然な感覚をふさいでしまえば、精妙な働きが、どうして生まれようか?

   ただ思うこともなく、することもなく、この感覚に従って動くときには、自分には姿というものがない。姿がなければ、天下に、自分にかなう者はいない。」

 


   さて、あれこれ小言を言ったが、各々の修業してきたことは、無駄だというわけではない。

   真理とその実践は、分かちがたく結びついているから、身体で行うことの中に、真理は含まれている。

   そもそも気というものは、この身を操る元と言うべきものだ。その気がとらわれのない境地にあるなら、どんな物事にも対応できて困らない。気がなごみ、相手となじむときには、力を使って何かする必要はなく、この身を鋼鉄のようなものにぶち当てても、折れる気遣いはない。

   ところが、心にどんな些細であれ、欲があれば、やることなすことは、全てわざとらしくなる。それは、真理と一体になった身体の動きではない。そうなれば、向かってくる者はまるで意のままにならず、我と戦おうとする心を持つ。

   左様に、術というのは、使えばわざとらしくなる。ならばどの様にして、術を使えばよいのだろうか。心を無にして、自分を取り囲むありのままに、その時その時応じるだけだ。

   ただし、真理に至る道というものには、限りがない。だから私がいま言ったことを、究極の真理などと思ってはいかん。

 


   昔、私の住む隣の村に、ある猫がいた。一日中寝ていて、動きも気配もない。木で作った猫のようだった。その猫がネズミを捕ったところを、誰も見たことがなかった。ところがその猫がいるところには、ネズミは一匹もいなくなるのだ。猫がよその場所へ行っても、同じようにネズミはいなくなる。

   私はその猫の所に出かけて行って、なぜでしょうかと聞いてみた。でもその猫は答えなかった。四度聞いたが、四度とも答えなかった。これは、答えなかったんじゃない。答えを知らなかったんだ。

   ここで私ははっと気付いた。老子さまの教え、知る者は言わず、言う者は知らざるなり、ということに。その猫は、自分を忘れて、無そのものになっていたんだ。これこそ、神の如き武術を持ちながら、殺さない、というものだ。だから昼間ネズミを捕った私というのは、彼には遠く及ばないのだよ。

  

   ここまで、古猫のお説教を聞いていた勝軒は、夢のお告げを聞いたように感心した。そこで、猫が集まっているところに出てきて、古猫にお辞儀してこう言った。

「私は剣術を修業して、ずいぶん長くなります。しかし今だにその道を極めていません。この夜、猫のみなさんの話を聞いて、私の剣の道の極意を悟りました。どうかお願いですから、さらにその奥義をお教え下さい。」

 


   古猫が、応えて曰く

「いやぁ、私はけものですから。ネズミについては、ただ日々の食事を得るための話に過ぎません。私ごときが、人がする剣術を、分かっているものですか。

   それでもまぁ、こういう話を、ちょっと聞いたことがあります。そもそも剣術は、人に勝つことだけを目的とし、修業するものではありません。命のやりとりをする事態に陥ったとき、どちらが生か死か、それを決める術だと言うことです。だから侍たる者、いつもこの心を養い、この術の稽古に励まなければ、侍と言われる資格がありません。

   ですからまず、生と死とは何かということわりをよく理解し、己の心から偏りやこだわりを捨て、疑うことも迷うこともなく、考えや技術を使うことなく、心も気も穏やかにして、気がかりが無く、落ち着いて、あるがままに過ごしているなら、どんな変化に出くわしても自在に対応できます。

   ただしこの心に、わずかでも気がかりがあれば、自分にかたちが出来てしまいます。かたちが出来てしまえば、敵ができ、それに刃向かう自分が出来ます。そうなったら、互いに戦うしかありません。こうなってしまったら、変化に対して自在に応じることはできません。加えて、自分の心は戦う前に死の境地に落ちてしまい、魂も曇ってしまいます。

   こうなればどうして、素早くはっきりと、勝負をつけることが出来ましょう。もし勝てたにしても、それは、何だか知らんが、刀を振り回してたら勝ってしまった、というものです。剣術の本来の道に沿った勝ち方ではありません。

   ただし、こだわりを捨ておのれを無にする、と言っても、それは、俺は無だ、俺は無だと、無理やり思い込もうとする無ではありません。

   そもそも心には、かたちがありませんから、何か心でないものを、その中に含むことは出来ません。それが無理をして、少しでも含まそうとすると、気がそこに偏ってしまいます。このように気が偏るときには、するりとした自由でいることは出来なくなります。そんな気分で何かをしたら、いずれもやり過ぎになりますが、そうかと言って気を向けずに何かをしたら、いずれも中途半端になります。やり過ぎるときは勢いが付きすぎて、引っ込みがつかなくなりますし、中途半端な時は、ぐうたらとものの役には立たなくなります。どちらも、変化に応じることは出来ません。

   私が言う、無というのは、何も心に挟まず何にも頼らず、敵もなく我もなく、せまってきた物事に従って、それに応じて、しかもその気配を残さないことです。易経にはこう書いてあります。思いもせずすることもなく、静かに動かなければ、感じるだけで、天下の物事に通じることが出来る、と。このことわりを知って剣術を学ぶ人は、真理に近付いているのですよ。」

 


   勝軒が尋ねた。

「敵もなく、我もなし、というのは、どういうことでしょうか。」

 


   古猫が、応えて曰く

「自分があるから、敵が出来る。自分がなければ、敵は出来ない。そもそも敵というのは、何かと何かが対立して、向かい合うさまを言う。陰と陽や水と火のように、すべてかたちがあるものには、必ず対立するものがある。

   自分の心にかたちがなければ、対立するものはできない。対立するものがなければ、争うということがない。これを、敵もなく、我もなし、と言うのです。

   自分を取り巻くものと、自分のいずれも忘れて、深い湖のような静けさで何事も起こさないときには、すべてはなじんで一つになる。その境地で姿ある敵を破ったとしても、自分はそれに気付くことがない。いや、気付かないと言うより、勝とうという思いが無く、感じたままに動いただけのことなんです。

 


   この心が深い湖のように静かで、事を起こさないときには、世界は自分の世界になる。何が正しい間違っている、どれを好む嫌うという、こだわりが無くなるからです。誰もが自分の心のままに、苦か楽か、得か損かを分けています。だから天地は広いと言っても、自分の心のほかに、求めるものなど無いのです。

   昔の人が、こう言ったそうです。眼の中にチリが挟まっているから、この世界が窮屈になってしまう。心に何も無ければ、一生は広々とすると。

   目の中にちょっとでもチリが入ってしまえば、目を開けることは出来ません。視力というのは元々ものではなく、だからこそはっきりと見えるというのに、そこにものが入ってしまったから、このように狭苦しい思いをすることになるのです。心とは何かと例えれば、こういう話になるのです。

 


   また昔の人は、こうも言ったそうです。千人万人の敵の中にあって、たとえ我が身のすがたは微塵になっても、この心は私のものだ。いかなる大敵であろうとも、これはどうすることも出来ないと。

   また孔子さまもこう言っています。つまらない男であっても、これをやるぞ、というその志を、誰かが奪うことは出来ないと。

   もし心に迷いがあるなら、かえって自分の心が、敵を助けることになってしまう。私が話したことを突き詰めて言えば、そういうことになるのです。

 


   さらに話を続けるなら、ひたすら自分で気付きなさい、とも言われています。以心伝心、心から心に伝わった、という言葉で表現してもいいでしょう。教外別伝、教えたわけではないけど伝わった、ということでもあります。

   これらは、教えに背く、ということではありません。師匠にも、言葉や身体で伝えることが出来ない何かがある、ということなのです。

   これは何も、禅の世界だけではありません。聖人の教えから、様々な技術の端に至るまで、弟子が自分で気付いたことというのは、すべて以心伝心であり、教外別伝なのです。

   教えるということは、元々弟子自身が持っていたが、自分では気付かないものを、それがそうだよ、と指さして知らせてあげるだけのことです。

   師匠から弟子に授けることではないんです。教えることそのものは簡単ですし、教えを聞くことも簡単です。ただし、弟子が自分の中にあるものを、確かに見つけて、自分のものとするのは難しい。

   この見つけるはたらきを、見性といいます。悟るということも、妄想の夢から覚めるだけのことです。目覚める、と言い換えても同じです。誰にも覚えのあることで、ごくありふれた話に過ぎません。」


「猫の妙術」は、江戸期に刊行された『田舎荘子』の一節。

   版本は享保12年(1727年)のものが九州大学に、出版年不明のものが早稲田大学に所蔵。

   著者は関宿藩士であった丹羽十郎左衛門忠明とされ、佚斎樗山の筆名で刊行された。

   内容は上掲の一節同様、動植物の対話形式を取り、荘子の思想をかみ砕いて教える寓話集、とされる。

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子供のためのカント

ザロモ・フリートレンダー

 

文明化した時代

 

道徳化した時代

 

政治の核心は、法則にある。

 

法則は、道徳論の核心。

 

自然法

 

何を行うべきなのか。

 

誠実性の法則は、道徳の基本法則。

 

法則と義務に対する尊敬。

 

法治国家の道徳的正当化。

 

満足感を得るためだけに食べるのではなく、満足感を伴って食べる。

 

道徳的に行為する。

 

善的行為、悪的行為、道徳的禁止行為。

 

道徳的行為=理性の思惟法則。

 

道徳的行為の認識

原則的行為であり、衝動的行為でない。

 

合法性・理性的存在者

 

道徳的原則では、個々人が道徳的に評価され、相互的で同列。

 

道徳的義務が個々人の身体的、人格的自由を保障する。

 

処罰が道徳的に法を保護する。

 

何を希望することが許されるのか。

 

何を知ることができるのか。

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山岡鉄舟先生 剣禅話

山岡鉄舟先生

1836年7月23日-1888年7月19日

剣禅話

剣法論

剣法と禅理

1880年明治13年4月鉄舟43歳

   浅利又七郎義明との出会い。

1822年〜1894年

   外柔にして内剛なり。

   精神を呼吸に凝らし、勝機を未だ撃たざるに知る。

   剣禅兼至るの人。

滴水禅師

1822年〜1899年

  両刃交鋒不須避。好手還同火裏蓮。宛然自有衝天気。

  りょうばほこをまじえ、さくるをもちいず。こうしゅかえりて、かりのはすにおなじ。えんぜんおのずからしょうてんのきあり。

  先ず我が心の明らかなる時に確と思い極め置き、事に着手すれば、是非に執着せず。

  之を剣法に試み、夜は復た沈思精考し、従前の如く専念呼吸を凝らし、釈然として天地物なきの心境に坐せるの感あるを覚ゆ。

学剣労心数十年。臨機応変守愈堅。

一朝塁壁皆摧破。露影湛如還覚全。

論心総是惑心中。凝帯輸籯還失工。

要識剣家精妙処。電光影裏斬春風。

剣法邪正弁

1882年明治15年1月15日鉄舟45歳

  我体を総て敵に任せ、敵の好む処に来るに随ひ勝つを真正の勝ち。

  自然の勝ちにして、法なき所以なり。

  直に勝気を先んじ、妄りに血気の力を以て進み勝たんと欲するが如し、これを邪法と云う。

  剣法の真理は万物大極の理を究むる。

無刀流と称する説

1885年明治18年1月15日鉄舟48歳

  無敵に至りたるを以て至極とす。

  心外に刀なきを無刀という。

  無刀とは無心と云うが如し。

  無心とは心を留めずと云う事なり。

  浩然の気、天地の間に塞つ。

  必ず疑を容れず刻苦修行あるべし。

剣術の流名を無刀流と称する訳書

1885年明治18年5月18日鉄舟48歳

  無刀とは心の外に刀なし、三界唯一心。

  一心は内外本来無一物。

  前に敵なく、後に我なく、妙応無方、朕迹を留めず。

無刀流剣術大意

一、無刀流剣術者は、勝負を争はず、心を澄し胆を練り、自然の勝を得るを要す。

一、事理の二つを修行するに在り事は技なり、理は心なり事理一致の場に至る是を妙処と為す。

一、無刀とは何ぞや、心の外に刀なきなり敵と相対する時、刀に依らずして心を以て心を打つ、是れを無刀と謂う其の修行は、刻苦工夫すれば、譬えば水を飲んで冷暖自知するがごとし、他の手を借らず自ら発明すべし。

一刀流兵法箇条目録

1882年明治15年4月8日鉄舟45歳

   万物、大極の一より始まり、一刀より万化して一刀に治まり又一刀に起こるの理有り。

   一刀流は活刀を流すの字義あり。

   流すは、すたるの意味なり。

   一刀に起こり一刀にすたる。

   後人師のくせを学ぶが流なり。

   武芸の総名兵法なり。

   一芸の一理を以て万理におしうつる。

   陰陽循環して玉のはしなきが如く。

   無量にして極りなき心を以て。

一、二之目付之事

  先ず一体に見る中に、切尖、拳に目を付く。

己、彼をも知る必要あるを以つ。

一、切落之事

  火の生ずる如き、間髪を不容の処。

  いつの間にかあたる一拍子。

  切落すと共にあたりて勝つ理。

一、遠近之事

  打つ間、相手に遠く、自分に近いこと。

  近き拳に勝ちあるを知って、遠き面を打つ。

一、横竪上下之事

  真中の処。

  上来下応、横来竪応、心中央にあり気配自由。

一、色付之事

  相手の色に付かず。

一、目心之事

  心の目にて見る。

一、狐疑心之事

  疑心を起こすな。

一、松風之事

  合気を外す。

一、地形之事

  順地逆地の事。

  我を順地に、相手を逆地に。

一、無他心通之事

  相手を打つ一偏の心になれ。

一、間之事

  一足一刀。

一、残心之事

  心を残さず打て。

  惜しまずすたること当流之要とす。

竹刀長短の是非を弁ず

1883年明治16年9月14日鉄舟47歳

   剣の寸尺十拳。

   十拳は身の半体。

   剣と半体を合わせ我全体となる。

   真剣実地の用に当る。

素面木刀試合の説

1884年明治17年11月鉄舟48歳

   優勝劣敗は当然のこと。

大工鉋の秘術

1884年明治17年4月鉄舟47歳

   大工の鉋を遣う術。

   荒しこ

   体を固め、腹を張り、腰をすえ、左右の手に等しく力を入れて総身の力を込め、荒削り。

   中しこ

   手の内に加減ありて平らかに削る。

   上しこ

   始より終り迄、一鉋にて削る。

修養論

武士道

1862年万延元年3年20月山岡鉄太郎25歳

   神儒仏三道融合の道念

   己れ勝つ事のみを知って、負る事を知らざるは武士道にあらず。

   武士道は、本来心を元として形に発動するものなれば、形は、時に従い事に応じて変化遷転極りなきものなり。

   諸行無常の理

修心要領

1858年安政5年7月鉄太郎21歳

   人の心、宇宙と等し、四季の変遷も、皆我が起臥進退の行いあるが如きなり。

   世事の顚倒、人事の順逆は恰も人生の陰陽あるが如し。

   唯だ道に従って自在なるのみ。

   剣法の呼吸に於いて神妙の理に悟入せんと欲する。

   剣法を学び、心胆錬磨の術を積み、心を明らめて以て己れ亦天地と同根一体の理、果たして釈然たる境に到達せんとするのみ。

心胆錬磨之事

1858年安政5年3月鉄太郎21歳

   真に胆の豪なるものは、時に応じ、事に接して変化縦横、人其消息を知るべかざるもの。

   先ず思いを生死の間に潜め、生死は其帰一なる事を知覚する事肝要なるべし。

   経験と鍛錬とにより、習慣性をなす。

   唯潜心工夫、其心に会するあるのみ。

生死何れが重きか

1859年安政6年3月鉄太郎22歳

某人傑と問答始末

1864年元治元年12月鉄太郎27歳

父母の教訓と剣と禅とに志せし事

1864年元治元年正月鉄太郎27歳

   八、九歳の頃、忠孝の道に志す。

   長徳寺の願翁禅師より、本来無一物に参ずる。

   今大要を録し温故知新の則となす。

書法に就て

1885年明治18年12月鉄舟山岡高歩誌49歳

   十一歳、愚父朝右衛門に従う。

   岩佐一亭

   剣師 井上清

   画師 梅宰

   王羲之

   弘法大師恰も雲煙龍飛すりが如し。

   明治十三年剣禅ニ道に感ずる処あり。

   本年正月、楽書、十八万一千余。

仏教之要旨(門生聞書)

鉄券之説(門生聞書)

維新覚書

朝廷に奉仕する事

1872年明治5年12月宮内侍従  山岡鉄太郎誌36歳

   本来の考えに違っていないことを誓う。

   晴れてよし曇りてもよし富士の山  もとの姿は変らざりけり

西郷氏と応接之記

1882年明治15年3月山岡鉄太郎誌45歳

覚王院上人と論議之記

1883年明治16年3月山岡鉄太郎誌46歳

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小川忠太郎範師 剣道講話

小川忠太郎範師

剣道講話

 

剣道の理念

 

湯野正憲先生

命ありけり 後振り返りもせず この門 ただ向こうを向いて 行くばかりなり。

 

柳生流の秘歌

キリムスブ カタナノシタゾジゴクナレ タダキリコメヨ シンメウノケン。

 

禅語

盧山は煙雨江は潮 未だ到らざれば千般恨消えず 到り得帰り来って別事無し 

盧山は煙雨江は潮。

 

一息無限

自己の身心これ本体。 真実の自己が本体。

 

日本刀

剣の精神 やり直しの出来ない人生に直結。

刀の切り合いではなく、剣の精神。

武術は、命のやりとり。

 

人間性に立脚

誠を尽くして常に自己の修養に努める。

 

理法 

指導理念

刀法・身法・心法

刀法は正解な打突  身法は適正なる姿勢  心法は充実した気勢。

 

刀法と身法の体得

正しい切り返し  かかり稽古  打込み三年  警視庁の基本。

 

心法

十牛図

 

第一 尋牛

 真実の自己を尋ねる。 

白隠禅師 従来不失何用追尋。

柳生厳長 正伝新陰流

笹森順造 一刀流極意

三摩之位  習・工・練   習う 考える 稽古する。

師匠 宇宙の心理を体得した人。

求道心。

 

第二 見跡

理論的に解釈。

剣道 万刀一刀に帰す。

 

第三 見牛

剣道の手段は修練。

一心

三昧無礙。

決死の覚悟で捨身になる。

山梨平四郎の悟り

山岡鉄舟  立切 頓悟 三角矩(目・剣先・)  臍眼 呼吸は踵息

心身一如  成仏一念

 

第四 得牛

悟後の修行

得心荒

頑空は、囚われ

 

第五 牧牛

綿密に修行

に、懸待一致

自己の本心を掴む

古流の形から真理を学ぶ

道力 古力

第六 騎牛帰家

第三、四、五は、己に勝つ。反芻

平常心

春百花有り 秋月有り  夏涼風有り 冬雪有り。 若し閑事の心頭に挂くる無くんば、便ち是人間の好時節。

晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿はかわらざりけり

順境結構 逆境結構

日々是好日

 

第七 忘牛存人

睡虎の気

四角八方・横竪上下之内・中者突也

自然に丸く押す 気当り

人間形成

 

第八 人牛倶忘

我なければ敵なし

無縁の慈悲

祖元禅師 乾坤孤笻を卓つるの地無し 喜得す人空にして法もまた空なるを 珍重す大元三尺の剣 電光影裏春風を斬る

 

第九 返本還源

正念相続の修行

観音三十三応身の修行

衆生済度

雑念妄想を混えない

 

第十 入店垂手

一点梅花の芯

社会形成

 

道人

自覚覚他覚行円満

人間形成 段階的に成長させる。 看脚下

 

剣道と人間形成

剣と道 二つの内容

 

竹刀を刀の観念で使う

生死の巌頭

 

修行に志し多年不退転で相続 

到達

悟了同未悟

事の修行により理を身につける

体・相・用

三即一、一即三

本体 生命力 浩然の気 不識 日月照臨不到 天地蓋覆不盡

自然の相 調和 構え 生存の肯定。 用変 無常

天命これを性と謂う 性に率うを道と謂う

天命とは生命力 疑いのないものが天命 天命の現れが性

人間の道を修行する

 

柳生流

三摩の位

習・工・練  聞・思・修

習 師を得る

工 教授を工夫

錬  鍛練

 

三昧

真剣 一心。 一心 求道心。

 

剣法三角矩

 目・剣先・ 

 

人間形成

剣道と五蘊皆空

色・受・想・行・

色 形あるもの 肉体

受 五感で受けること

想 内なる思い 念慮

行 細かい念慮 連想

識 心澄時に湧く一念

蘊 集積の意 心の垢 

生来備わる五感に曇がかかり苦しむ

根元は空であるということ

生老病死の苦しみを解決する手段

曇をとるために修行をする

 

剣道

構え 正しい構え

打ち込み三年 懸り稽古三昧。 己に克つ修練。  全身全力 獅子の気合い

禅では、大死一番絶後に再蘇

苦修三年にして本体、三角矩の構えが得られる

得たら執着せず、心境一如、物我不二まで練り上げる

これが剣道の基礎となる。

人間形成の土台

 

相手からの働きかけに対する心構え

自他不二の本体に立つ

一念不生 思った時に打つ

二念を継がない

意馬心猿

数息観 念念正念に入る秘訣

雲弘流 一息円想無我

踵息三昧になりきれば散心必ず歇む

正念相続の修行こそ人間形成の険関、真髄

 

細かい念慮、連想は、畢竟夢幻空華

 

一念 迷 悟の別れる原点

生じた一念、機先を制する

施無畏

 

人間形成

覚有情

 

剣の理法と修行

   事理一致  事理相忘

八絋一宇 則天去私 有念有想で捨身となる

 

 

 

子供たち

小学生、中学生の段階で道という観念を植え付ける

切り返し、基礎で自己を鍛える

形、理合で人間形成につなげる

 

五戒

嘘をつかない  怠けない  やりっ放しにしない  我儘しない  ひとに迷惑をかけない

 

勝の一念

二念を継がない

 

正しく  楽しく  仲よく

 

腓骨を伸ばす

下腿の後ろ外側、管状の長骨、下端の外側は外踝

呼吸を臍下丹田から踵まで下げる

小川忠太郎範師 剣道講話

小川忠太郎範師

剣道講話

 

剣道の理念

 

湯野正憲先生

命ありけり 後振り返りもせず この門 ただ向こうを向いて 行くばかりなり。

 

柳生流の秘歌

キリムスブ カタナノシタゾジゴクナレ タダキリコメヨ シンメウノケン。

 

禅語

盧山は煙雨江は潮 未だ到らざれば千般恨消えず 到り得帰り来って別事無し 

盧山は煙雨江は潮。

 

一息無限

自己の身心これ本体。 真実の自己が本体。

 

日本刀

剣の精神 やり直しの出来ない人生に直結。

刀の切り合いではなく、剣の精神。

武術は、命のやりとり。

 

人間性に立脚

誠を尽くして常に自己の修養に努める。

 

理法 

指導理念

刀法・身法・心法

刀法は正解な打突  身法は適正なる姿勢  心法は充実した気勢。

 

刀法と身法の体得

正しい切り返し  かかり稽古  打込み三年  警視庁の基本。

 

心法

十牛図

 

第一 尋牛

 真実の自己を尋ねる。 

白隠禅師 従来不失何用追尋。

柳生厳長 正伝新陰流

笹森順造 一刀流極意

三摩之位  習・工・練   習う 考える 稽古する。

師匠 宇宙の心理を体得した人。

求道心。

 

第二 見跡

理論的に解釈。

剣道 万刀一刀に帰す。

 

第三 見牛

剣道の手段は修練。

一心

三昧無礙。

決死の覚悟で捨身になる。

山梨平四郎の悟り

山岡鉄舟  立切 頓悟 三角矩(目・剣先・)  臍眼 呼吸は踵息

心身一如  成仏一念

 

第四 得牛

悟後の修行

得心荒

頑空は、囚われ

 

第五 牧牛

綿密に修行

に、懸待一致

自己の本心を掴む

古流の形から真理を学ぶ

道力 古力

第六 騎牛帰家

第三、四、五は、己に勝つ。反芻

平常心

春百花有り 秋月有り  夏涼風有り 冬雪有り。 若し閑事の心頭に挂くる無くんば、便ち是人間の好時節。

晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 もとの姿はかわらざりけり

順境結構 逆境結構

日々是好日

 

第七 忘牛存人

睡虎の気

四角八方・横竪上下之内・中者突也

自然に丸く押す 気当り

人間形成

 

第八 人牛倶忘

我なければ敵なし

無縁の慈悲

祖元禅師 乾坤孤笻を卓つるの地無し 喜得す人空にして法もまた空なるを 珍重す大元三尺の剣 電光影裏春風を斬る

 

第九 返本還源

正念相続の修行

観音三十三応身の修行

衆生済度

雑念妄想を混えない

 

第十 入店垂手

一点梅花の芯

社会形成

 

道人

自覚覚他覚行円満

人間形成 段階的に成長させる。 看脚下

 

剣道と人間形成

剣と道 二つの内容

 

竹刀を刀の観念で使う

生死の巌頭

 

修行に志し多年不退転で相続 

到達

悟了同未悟

事の修行により理を身につける

体・相・用

三即一、一即三

本体 生命力 浩然の気 不識 日月照臨不到 天地蓋覆不盡

自然の相 調和 構え 生存の肯定。 用変 無常

天命これを性と謂う 性に率うを道と謂う

天命とは生命力 疑いのないものが天命 天命の現れが性

人間の道を修行する

 

柳生流

三摩の位

習・工・練  聞・思・修

習 師を得る

工 教授を工夫

錬  鍛練

 

三昧

真剣 一心。 一心 求道心。

 

剣法三角矩

 目・剣先・ 

 

人間形成

剣道と五蘊皆空

色・受・想・行・

色 形あるもの 肉体

受 五感で受けること

想 内なる思い 念慮

行 細かい念慮 連想

識 心澄時に湧く一念

蘊 集積の意 心の垢 

生来備わる五感に曇がかかり苦しむ

根元は空であるということ

生老病死の苦しみを解決する手段

曇をとるために修行をする

 

剣道

構え 正しい構え

打ち込み三年 懸り稽古三昧。 己に克つ修練。  全身全力 獅子の気合い

禅では、大死一番絶後に再蘇

苦修三年にして本体、三角矩の構えが得られる

得たら執着せず、心境一如、物我不二まで練り上げる

これが剣道の基礎となる。

人間形成の土台

 

相手からの働きかけに対する心構え

自他不二の本体に立つ

一念不生 思った時に打つ

二念を継がない

意馬心猿

数息観 念念正念に入る秘訣

雲弘流 一息円想無我

踵息三昧になりきれば散心必ず歇む

正念相続の修行こそ人間形成の険関、真髄

 

細かい念慮、連想は、畢竟夢幻空華

 

一念 迷 悟の別れる原点

生じた一念、機先を制する

施無畏

 

人間形成

覚有情

 

剣の理法と修行

   事理一致  事理相忘

八絋一宇 則天去私 有念有想で捨身となる

 

 

 

子供たち

小学生、中学生の段階で道という観念を植え付ける

切り返し、基礎で自己を鍛える

形、理合で人間形成につなげる

 

五戒

嘘をつかない  怠けない  やりっ放しにしない  我儘しない  ひとに迷惑をかけない

 

勝の一念

二念を継がない

 

正しく  楽しく  仲よく

 

腓骨を伸ばす

下腿の後ろ外側、管状の長骨、下端の外側は外踝

呼吸を臍下丹田から踵まで下げる